前回の日記で紹介したNY在住のエンターティナー桜子さんにつづき、
今回は、かの有名な黒柳徹子さん。
その前に、ここ数日、記録的な太陽風の乱れから、
磁気圏の活動がかなり激しく変化し、記録的な数値を
表示しているようです。次第に勢いは下がってきている
ようですが、3/22くらいまで続くようですが、放射線帯の
高エネルギー電子は増加を始めているとのこと。
京都大学WDCによるDst指数は大きくマイナス側に振れ、
-221nTといって、この数値が -200nTを越えるのは、
現在の太陽の第24活動期では初めてのことらしく、
前回は10年前、2005年5/15の-247nT以来だそうです。
その影響で、カナダやニュージーランドや北海道では
真っ赤なオーロラが観測されているようです。
(なろよ市立天文台きたすばる)
(カナダのイエローナイフ)
☆イギリスで撮影されたオーロラ
URL http://www.bbc.com/news/uk-31936513?ocid=socialflow_twitter
2014年8月にNY郊外の街、Woodstockのレストランで、偶然にも
黒柳徹子さんとバッタリ会いましたが、そんな彼女は81歳にて、
毎週のレギュラー番組を持つ現役であり、休暇には遥々NYまで足を
伸ばすというそのエネルギッシュな彼女にinspireされました!
(NYのWoodstockのあるレストランで 黒柳徹子さんと)
*徹子さんとお会いした時の日記:http://yukistar88.exblog.jp/23076883/
ハツラツとした生徹子さんとお会いして、私も元気いただきました。
昨年末(2014年)の紅白歌合戦では審査員として出演されていましたが、
お会いしてから、より意識するようになり、このような記事を見つけたので、
シェアしたく思います。
記事引用リンク:http://spotlight-media.jp/article/122271534304496996#/
家族もすごかった…!
父は音楽家で、NHK交響楽団のコンサートマスター
も務めたヴァイオリニストの黒柳守綱(旧姓田口)、
母は声楽家でエッセイストの黒柳朝(旧姓門山)。
弟はヴァイオリニストの黒柳紀明、妹はバレリーナで
エッセイストの黒柳眞理、伯父には日本ニュースの
ニューヨーク支社長やアメリカ・メトロニュースの
極東代表を務めた田口修治がいる。
幼少時代を描いた「窓際のトットちゃん」
出典 http://bookclub.kodansha.co.jp
東京都目黒区自由が丘にかつて存在し、著者の黒柳が
通学したトモエ学園を舞台に、黒柳自身の小学生時代
についてはもちろん、トモエ学園に於けるユニークな
教育方法(リトミック、電車を利用した教室など)
や、校長である小林宗作の人柄が描かれ、また黒柳の
級友も全員実名で、その中でも初恋の相手に物理学者
の山内泰二も登場する、完全なノンフィクション。
子供のころから個性的!なんと小学校を退学させられる
彼女は最初に入学した小学校で問題児扱いされていた。
教室の机のふたが珍しくて授業中何度もパタパタ開け
閉めしたり、パタパタやってないと思ったら窓ぎわで
チンドン屋さんを待っていたり、日本の国旗を画用紙に
描く授業では軍艦旗に黄色い房をクレヨンで描いて
机に跡が残ってしまったり、本人は好奇心旺盛なの
だが先生からは迷惑がられてしまい、とうとう小学
1年にして退学させられてしまう。
ユニークな教育方針のトモエ学園に転校
トモエ学園の校長先生と初めて会ったとき、トットちゃんは前の
学校や飼い犬、家族のことなど、次から次へと話し続け、その話は
なんと4時間も続きました…。それでも校長先生は最後まで話を聞いてくれ、
トットちゃんの話が全て終わった時に「君はここの生徒だよ」と言ったそうです。
特に、校長先生が何回も何回も言ってくれていた
「君は、本当は、いい子なんだよ」という言葉は、
これまで薄々と疎外感を感じていた彼女をいつも
元気づけてくれる言葉であったという。
「窓ぎわのトットちゃん」は、この校長先生に向けて書いた本でもあるそうです。
「音楽学校を卒業してオペラ歌手になれないことが
分かったので、自分の子どもに人形劇や絵本の読み
聞かせを上手にできるお母さんになろうと思ったん
です。そんなときNHK放送劇団の俳優募集が新聞に
出ていて、素人でも1年間養成してくれると書いて
ありました。ひょっとしたら絵本の読み方も教えて
くれるかもしれないと応募したんです」。
失言を繰り返すも、見事審査に合格
放送劇団入社時の面接では「親に言ったらこんな
みっともない仕事を(するのはやめろと言われた)
…」「こういう世界は騙す人が多いから気をつけろ
という話を聞く」などの失言を繰り返したのにも
かかわらず、合格できたという。
全然、人を羨んだり、自分と比べたりすることは
なくて、 自分は自分でしかないなあって。 全部を
ユーモアで笑い飛ばして、軽くお洒落に生きて行けば、
それはそれで立派に生きていけるんです。
個性を武器にすることで、存在感を発揮
個性が強すぎると言われ続けた黒柳徹子は
番組のオーディションに合格した際、劇作家の
飯沢匡に向かって「個性引っ込めますので宜しく
お願いします」と告げたのだが、そのとき飯沢は
首を横に振り「君のその個性が欲しいんだ」と伝える。
この言葉こそが結果として、黒柳徹子のその後の
芸能人生に大きな影響を与えることになった。
NHK紅白歌合戦の司会を務める
1958年の「第9回NHK紅白歌合戦」で紅組司会を務める。
それから22年の月日が経った1980年「第31回NHK紅白歌合戦」
でまた紅組司会に復帰し、そこから4年連続、通算5回紅組司会を務めた。
4年連続、通算5回の紅組司会という記録は、いずれも佐良直美さんに
並び史上最多。
1971年に、私はニューヨークに1年間留学した
ことがあります。38歳のときでした。もともと、
NHK専属のテレビ女優第一期生で、演技については
素人でも構わないということだったんですが、
ラジオやテレビでご一緒する俳優の先輩たちは、
皆さん、ものすごく上手なの。私たちは、テレビ
なのでなるたけ自然な演技でいいと言われてはい
たものの、ずっと芝居をやっている俳優の方たちは、
存在感が違う。どうしてこんなに上手なんだろうと
考えると、どうも皆さん、舞台の経験があるって
ことがわかったんです。だから私もいつか、劇団に
入るかして勉強しなきゃダメだろうと思っていました。
人生であのときほど、いろんなことを学んだ時期は
なかったように思います。まずは英語もそうだし、
演劇学校ではウソのない台詞回しを。芝居のテク
ニックだけじゃなく、人間の生き方についても学び
ました。たくさんのスターの方たちにもお会いしま
した。ヘンリー・フォンダもキャサリン・ヘプバーンも。
ものすごく優しくて、スターぶっていなくて、
「人間がよくないと、俳優ってダメなんだな」と
思いました。
情報を操作しない!ありのままの結果を視聴者に
1978年1月の番組開始時、黒柳さんは「本当に
1位でない人を、1位と言わせないでください」と
“ランキング操作”拒否の姿勢を打ち出した
視聴率よりも、視聴者に喜んでもらうことが大事
「私は放送界で一番(視聴率を)考えない人間。
これをやったら面白そうとか、見てくださる方は
こういうのが好きじゃないかなとか。自分を信じて
番組をやってきた」と発言。あくまで「視聴者に
喜んでもらえること」を軸に、それを全うする
ことで、「数字」にこだわることなく、自らの
信念を貫き通してきたことを明らかにした。
出典 http://news.aol.jp
「徹子の部屋」をはじめるにあたっての条件
日本初のト-ク番組「徹子の部屋」を始めるに
あたり、黒柳がテレビ朝日に出した条件が「スタッフの
入れ替えをしないこと」「編集をしないこと」で
あった(ただしこれは番組がいつまで続くか分から
なかった開始当初のことであり、実際にはプロデュー
サーやディレクターは入れ替わっている)。
後者の理由は「ゲストのありのままの姿を引き出すため」
「番組の質の低下を防ぐため」「ゲスト・黒柳・
スタッフの三者間で『ここをカットしてほしい』
『ここを残してほしい』と編集に関する意見が
衝突するのを防ぐため」の3点である。
黒柳は「一切編集をしない。ほぼ生放送の状態。
だから皆さん本心を話してくれるんでしょう。」と語っている
いつもテーブルの上に置かれてあるメモの正体
担当ディレクターがゲストに話を聞いてきて、その話を
だいたい1時間かけて黒柳さんに話します。そこから
黒柳さんが「その話、面白い」というネタを自分で
ノートにメモをするのです。本当に受験勉強するみたいに。
本番の日に、エピソードごとに書かれた紙を
「この話はこっちかな」「これはこっちかな」と
切って張った、机に載るくらいの大きさの画用紙の
メモを作ってきます。そのメモを見ながら、最終的
な打ち合わせをディレクターと一緒に「この話は
こっちにもってきたいけど大丈夫か」などと綿密に
やる。切り張りのメモは前日とか前々日に作って
いるみたいです。
“芸人殺し”と恐れられていますが…
黒柳さんに「お笑い芸人の方も呼びましょう」と
お願いしたのですが、黒柳さんからは「いろいろな
人のVTRを見たけど、面白くない。笑えない」
と(笑)。黒柳さんにとっては、お笑いの面白さは
落語とか漫談。どこが面白いのかわからない人は
呼びたくないとおっしゃっていたのですが、「じゃあ、
笑えないということを、ゲストに直接言ってください」と。
黒柳さんは「何が面白いのか見てやろう」という
気持ちだったのだと思います。だから、間寛平さんの
「かい~~の」というギャグに「どこがかゆいん
ですか?」と真顔で聞いたり、アンガールズさんに
「どこで拍手すればいいんですか?」と聞いて
しまう(笑)。こうした「何が芸なのかわからないわ」
という徹子さんの「素直な」トークが面白くて、
視聴率が伸びたのです。
女優業の引退を決意
「徹子の部屋」を続けていく一方、女優としての活動に終止符を打ちます。
今から40年くらい前は、女優としてドラマとバラエ
ティを掛け持ちしていた時期もあったが
「『徹子の部屋』をやっている時に悪女の役を演ったら、
世の中に混乱される方がいる。具合が悪いのでそれを
最後に辞めました。それも大きな選択でしたね」
恋愛にも前向き!
ユニセフの親善大使を続けてきて、「それだけやっても
世界は良くならないではありませんか。むなしく
ありませんか」と言われることがある。けれど、
ひとりの子どもでも、救うのはたいへんなこと。
私は、世界中の子どもを救おうなどとは思っていない。
ただ、私が伝え、みなさんからいただいた募金で、
少しでも子ども達が助かってくれると嬉しい。
思いのままを言葉にして伝える軽快なトークと、強い信念の
もと活動し続ける黒柳徹子さんから、今後も目が離せません。
この記事のライター:うらら
NY留学時代から交流されているNY在住のお友達もたくさんいらっしゃるようですね。
歳を感じさせず現役で仕事も頑張られ、バケーションは遥々NYまでいらっしゃる、
そんなライフ・スタイルの徹子さんを知り、ますます尊敬します!
「窓際のトットちゃん」読みます!