すっかりご無沙汰のブログですが、
日本より戻りましたので再開です!
6/20の満月と6/21の夏至と続き、特に今回の夏至は、満月のパワーも注がれるのと、分離から統合へ、陰の月と陽の太陽の統合など、エネルギー変換という新たな流れがあるようで、空からもそんなエネルギーが感じられます。

(6/15撮影)
*6/21の夏至の日にNJにて、「自分の真実に光を当てる」瞑想とサウンドヒーリング&マクロビランチ(デザート付き)のコラボを ハドソン川沿いのステキな個人宅で少人数にて行います。
*場所: Edgewater (詳しくは、メールでお返事いたします。)
*内容: 瞑想とサウンドヒーリングのセッション&ランチ
*問い合わせ(CONTACT) moet☆moetskitchen.com(☆を@に変えて)

5,6月は、約1ヶ月間の長い日本滞在で、ますます日本の良さがしみる旅となり、後髪引かれる思いで戻って参りました。
新緑の爽やかな季節もよかったですし、オバマ大統領の広島訪問という歴史的な瞬間も日本で迎えられたこともよかったです。
初めての奄美大島では、丁度梅雨入りと重なり、お天気は今一つでしたが、かえって人が少なく、貸切状態であったのはよかったかもしれません。
久しぶりに再会した親戚や恩師、聖地巡り、日本の大自然に触れるなど、盛り沢山な日本の旅を順に追っていきます。
(奄美大島の南、加計呂麻島)
*5/18
成田空港に着く前の日暈。
到着した後に見かけた龍雲と鳳凰雲。
3.11以降は、日本へ行く機会が増えましたが、訪問先は、事前にプランすることが殆どですが、今回も想定外のことが起きたことで、当初の予定がドタ変更になったり・・・それでも後で納得する意味があったり、最後の最後まで、最終な行程はわからないもの。
目的地は自分で決めているようで、実は動かされているんだなぁと、見えない力の導きを感じずにいられません。なので、お任せでOKということをつくづく感じた今回の滞在でした。
まずは、昨年断念した鹿島神宮と香取神宮参拝。
そして、天日津久神社(麻賀多神社)鹿島神社奥宮の4ヶ所を半日でダーと駆け足で巡りました。
筑波山を目指しながら・・・
4/14,16と発生した熊本地震から中央構造線(フォッサマグナ)が動き出しているという噂もあったので、このタイミングなのでしょうか。
鹿島神宮は、中央構造線の東端にあたります。秩父山地から東に向かった中央構造線は岩槻を経て香取と鹿島の間を通って鹿島灘に抜ける。つまり岩槻より東の南関東海峡の東半分は中央構造線という大断層線によって形成された窪みで、鹿島は中央構造線の東端のすぐ北、そこは昔は海だったそうで、中央構造線の北側の岩塊が少し露出しており、その最も東に位置した巨大な岩塊が要石であったそうです。鹿島という地はもともとは香島といったそうですが、それは元々この地が砂礫に埋もれる前に海上に「香島」という島が存在したからであろうと思われ、この要石こそが、その「香島」そのものなのではないでしょうか。
「中央構造線の北側の露出した海上の岩塊」信仰の対象となったものが伊勢の夫婦岩だとか。この地が地震の巣であったのはすぐ南に中央構造線が通っていたからで、これは要石が押さえていたという龍脈そのものという太古の人々は、このラインを把握していたともいわれます。
中央構造線沿いには古くからの祭祀場が散在していて、阿蘇神社、伊豫豆比古命神社、大麻比古神社、日前宮、伊勢神宮、砥鹿神社、諏訪大社、金鑚神社、大宮氷川神社など。そうした龍脈の日本列島における最東端を押さえつける巨大な岩塊に対する祭祀が発生しても不自然ではないと。
そうした太古のおそらく縄文時代に遡る巨石信仰こそが鹿島神宮の祭祀の原点であり、その巨岩である「香島」が次第に砂に埋もれ頂上部分を残して見えなくなっていくにてれて、それは要石と呼ばれるようになり信仰の対象となり、そこから地震神信仰、雷神信仰などが派生し、この土地そのものが「香島」と呼ばれるようになっていきました。
その後、南洋系海洋民によって海上交通神が合祀され、交易によって農耕民の雷神信仰や鹿を霊獣とする信仰も加え、3世紀には大和王権勢力がフツヌシを合祀し、その後、フツヌシ信仰と従来の雷神信仰を合成して雷神であり武神である鹿島神宮の主祭神タケミカヅチが生まれたそうです。
引用リンク:
http://kn2006.blog66.fc2.com/blog-entry-394.html#pagetop
鹿島神宮(かしまじんぐう)は常陸国(茨城県)の一宮(旧国地域で最も格式の高い神社)。
全国約600社ある鹿島神社の総本社で、関東最古の神社。
そして、香取神宮とペアで関東の東を護る、地域全体の守護神です。
本殿
由緒あるズッシリとしたエネルギーでした。
日本神話最強の武神・勝利の神様、雷神・航海を司る・魔を退ける境のタケミカヅチ神
「鹿島要石真図」剣をもち大ナマズを抑えるタケミカヅチ神の像。
玉砂利でないので歩きやすく、きちんと清掃されている様子が見られました。
こちらが奥社
鹿島神宮で一番のパワースポットは、深い鎮守の杜の最奥にひっそりと鎮座する地震封じの「要石」。
ここは、太古から信仰の対象とされてきた場所。鹿島神宮の最重要な「心の御柱」的存在の霊石で、奥宮が要石を護るように配置されています。
かつて地震は地中に棲む大ナマズ(又は龍)が暴れて起こすものと考えられていて、要石はその大ナマズを押さえつけるもの。それでこの地方には大きな地震がないと伝えられていました。地上に出ている部分は小さいですが、地中部分は巨大で、決して抜くことができないと言われます。
古墳の発掘も指揮した徳川光圀公も、要石の正体を突き止めようと、7日7夜掘らせても掘りきれなかったそうです。
鹿島神宮の要石は凹型で、香取神宮には凸型の要石があり、地中でつながっているとも。鹿島の要石は大ナマズの頭、香取の要石は尾を押さえているとされます。
大昔より日本の中でも最も地震が多いエリアの1つであり、その原因が地中にいる巨大ナマズ(龍)であると言われ、そのナマズを鎮めるために鹿島・香取には「要石(かなめいし)」という石がそれぞれ祀られています。
この2つの要石もまた“陰陽”となっており、鹿島神宮の要石は「凹」の女性型で、香取神宮の要石は「凸」の男性型。
天下泰平氏のブログ:
http://tenkataihei.xxxblog.jp/archives/51941397.html
この日は午後から曇り空でしたが、時より太陽が顔を出し、一瞬、日が射した時に、光の曼荼羅!
この御神木の根元には、緑石が生えている(?)
そして、鹿島神宮を後にしようと大鳥居手前にある坂戸社・沼尾社遥拝所に引き込まるように立ち寄ると、そこの御神木より、プ~プ~と木鳴りがしました。
この音は、前回に訪問した足利の厳島神社でも聞いたことがあります。
精霊の声とでもいいましょうか。ご挨拶されたので、私もここで音叉を奏でさせていただきました。不思議~!
*鹿島神宮リンク:
つづいて香取神宮へ移動します。
霞ヶ浦は、さすがに広いですね!Mapでしか見たことなかった。
香取神宮に到着です!

閉まる30分前の到着でした。
茅の輪もあります。
本殿もゴージャスです!

時間があまりないので、要石中心の参拝。
*鹿島神宮と香取神宮の要石の由来:http://goo.gl/K1kHCX

鹿島神宮の要石は「凹」の女性型に対して、こちら香取神宮の要石は「凸」の男性型。

香取神宮の参道前には、数軒のお店が並んでいます。クリスタルやレトロなカフェなど、時間に余裕あれば、ゆっくりしたかったですね。


日が暮れないうちに、次なる目的地麻賀多神社へ。

麻賀多神社は時間に制限ありませんでした。
別名、天日津久神社:http://makata-jinja.com/about/index.html
この神社で、日月神示が降ろされたといわれます。

樹齢1400年の東日本一の杉。

こちらで、音叉の音色を奏でました。
樹木の中央の顔が見えますか?七福神のような大黒様にも見えます。

天下泰平氏のブログに、麻賀多神社の詳しい説明があったので、紹介します。
「メインである大麻の神紋や日月神示の天日津久神社のある麻賀多神社は、台方という地名にある麻賀多神社。基本的にはこの台方の麻賀多神社ともう一つの船方という地名にある麻賀多神社を参拝するのが一般的。」
麻賀多神社(天下泰平氏のブログ):
有名なパワースポットといわれる天日津久神社で、ここでエネルギーを感じられる方は多いですが。

この右奥の大権現社の方へ進むと・・・

ちょっとした森になっていて、神風が吹くなど、こちらの方が強いエネルギーを感じました!
この大権現社が奄美大島のある神社と繋がるとは、この時に知るよしもなく・・・

小雨も何度かぱらつきましたが、運良く参拝中は降らず、移動中に降ってくれました。
そして最後の目的地は、麻賀多神社(台方)本社から5分程の距離にある奥宮の麻賀多神社(船形)へ。
午後6時をまわり、かなり薄暗くなってきました。

空は分厚い雲に覆われていましたが、この時、西側の空に薄っすらと夕焼け空が覗いていまして・・・
こちらのご祭神は天照大神の妹神、
「稚日孁命(わかるひめのみこと)」。平安時代に記された「延喜式」に記載されている「式内社」で、非常に格式の高い神社だそうで、創祀年代は不詳ですが、3世紀後半から4世紀初頭にかけての期間とのこと。
大杉の御神木
樹齢約600年だそう
4軒の神社を巡り、これでこの日のお努めも終了とホッとした、その帰り道に分厚い雲から真っ赤な夕陽が見えました!

天照大神様より夕陽玉のギフトを!とこのタイミングに、そう思った次第です!
辺りは、もう真っ暗でしたが、こんなところに金毘羅神社?!
四国 金毘羅神社はこの2月に行きましたが。
隣には、伊都許利命墳墓があり・・・
石造りの一ノ鳥居の右側に大きな塚があって、かなり暗くなっていたので、ちょっと怖い感じもしたのですが、塚の上に、
「印波国造伊都許利命(いつこりのみこと)墓」と刻まれた石碑が建っていました。
伊都許利命は応神天皇の命を受けて印波国の国造としてこの地に赴き、産業の振興などに尽くしました。この麻賀多神社を創建した人物とも。
お墓と知って、この時間は既に暗く誰も人がいなかったこともありますが、確かに不気味な雰囲気はありましたが・・・
12日後の6/2に天下泰平氏が、この場所のことを以下のように書き下ろしていました。
先にこれを読んでいたら、この古墳に近づかないでいたかもです。((>_<))
「18社ある麻賀多神社は、成田市台方に本宮があり、同じく成田市内の船形という場所に奥宮(元宮)と古墳があります。ここにも樹齢600年ほどの立派な杉の木があり、どうやらこちらが女性性(陰)で日月神示の本宮は男性性(陽)となっていて、両方の麻賀多神社で陰陽統合1つとなっているようです。
「この古墳は「伊都許利命(いつこりのみこと)」という方のお墓です。
5世紀前後、印波国(旧印旛郡一帯)の初代国造となった伊都許利命(いつこりのみこと)は、神武天皇の皇子「神八井耳命」の八代目の御孫で、応神天皇の命を受けて印旛国造としてこの地方を平定し、産業の指導などに多くの功績を残したといわれています。ただ、実際に訪れて元高野僧の長典男さんが感じたのは、ここに眠っているのは太古の昔の女性であり、惨殺されて呪い神となって封じ込められていると。さらに何者かによって強力な結界が張られており、ここに触れようとする者に呪いをかける仕組みになっているため、すべての結界を解いて、その御霊も鎮魂。
これにて陰陽両方の麻賀多神社の調整も終わり、麻の神紋を持つ「大麻の神社」とも言われる麻賀多神社も更なる力を発揮するものと思われます。それにしても、いつ来ても不思議なことばかり起こる麻賀多神社。もし訪れる機会があれば、奥宮の両方を是非ともご参拝くださいませ。そして、綺麗でエネルギッシュになった古墳も・・・。」
ということで、特に問題なく訪問させていただきましたが、知らぬが仏でしょうか?!
この夜は成田に1泊し、翌朝奄美大島へ。
②.大自然の宝庫の奄美大島と加計呂麻島へつづく
久しぶりのプッチーくん。
我が家のこと、覚えているのだね。すっかり寛いでいるようですにゃ。
ぺロリン
ストレッチもほ~ら
日本の方へお知らせです!
私の友人で聖地巡りの仲間でもあるAYAさんが、6/24に浜町(都営新宿線)にて、絵本セラピーを開催します。
興味ある方は、ぜひいらしてくださいね。懐かしい紙芝居の絵本バージョンでしょうか。
詳細は、AYAさんのブログにあります。